05/09/2026
一杯のワインに、いくつの「生命」があるのか
——vin vivantという言葉の弾性
ワイン語りのレトリック 第8回
【生きている、でも安定している】
「このワインは生きている。」
ワインを飲んでいると、ときどきそんな言葉を聞きます。
開けた直後には閉じていた香りが少しずつ現れてきた。グラスのなかで温度が上がるにつれて、果実が消えて別の香りが出てきた。さっきより酸が馴染んでいる。口に含んでから味が動いていく。一杯目と二杯目で印象が違う。
そんなときに「生きている」と言うことがあります。
前回扱った energy や tension と同じように、これは桃やスミレのように特定の香りを指す言葉ではありません。それでも、ワインについて使われると、なんとなく意味が通じる。
ところが、「生きている」という言葉を少し追いかけてみると、グラスの中から思いがけないほど遠くまで出ていきます。酵母や細菌、発酵、葡萄樹、土へと進み、そこからテロワール、農法、醸造技術へ、さらに人がどこまで介入すべきなのかという問題や、標準化、衛生、自然との付き合い方へと広がり、ときには月や宇宙の「エネルギー」にまで伸びていきます。
二〇〇五年三月、フランスのワイン愛好家フォーラムLa Passion du Vinでは、亜硫酸、培養酵母、酵素、酸化と還元、熟成、鮮度、ワインの変化と安定性について長いやり取りが続いていました。
そのなかでPhilippe Barretという参加者が、
vins « vivants » mais stables
「生きている、しかし安定したワイン」と書き、その後、Renéと署名した投稿が、
Vive le vin, vive la vie, vive le vin vivant.
と応じました。生きているのに、安定している。少し妙な言い方です。[1]
生きているというのが変化することなら、安定するとはどういうことなのでしょう。逆に、安定していることが変化を止めることなら、何を止めたときにワインは「死ぬ」のでしょう。
この言い方を手掛かりに文献や造り手の言葉をたどると、いくつもの仕事が見えてきます。土に穴を掘り、葡萄を噛み、顕微鏡をのぞき、糖度を測る。牛の角に詰めた調合剤を使い、発酵槽へ耳を近づけ、ワインを加熱し、Brettanomycesを取り除く。月の位置を見ながら、何年も瓶を待つこともある。それぞれの場所で、「生命」は同じ顔をしていません。
何が生きているのかだけでなく、それを生かすために何をし、その結果をどう確かめているのか。その違いをたどることで、Living W**e / Vin Vivantという言葉の働きも、少しずつ見えてくるのではないかと思います。
* * *
【「生きたもの」と呼ぶことの来歴】
ワインを「生きたもの」あるいは「生きた産物」として語ることを、近年のナチュラルワイン運動が初めて作り出した、と考えることはできません。
スペインの薬学者Lucio Bascuñana y Garcíaは、一九三三年の講演で、ワインを生まれ、成熟し、やがて衰える生きた有機体として説明していました。Pablo Alonso Gonzálezの歴史研究が引用するこの講演では、選抜酵母や亜硫酸などを使う製法と、果汁の自然発酵を対置し、前者を「人工のワイン」、後者を「自然のワイン」と呼んでいます。[2]
直接の対立語は「自然/人工」ですが、その区別には、ワインの生命をどう理解するかが関わっています。どのようにワインができるのかという説明が、どの造り方を自然と認めるのかという判断にもなっているのです。
ただし、この生命観にはカトリック的な自然理解や伝統擁護の立場があり、現在の自然派ワインの思想をそのまま遡らせることはできません。また、Bascuñanaは科学の関与を全面的に退けたわけでもなく、伝統的な実践を科学によって調べ、整える役割を認めていました。[2]
生命を尊重するから、科学から離れる。そのようには分けきれないところが、すでにあります。ここで参照したのはAlonso Gonzálezによる引用と分析であり、講演原本の該当ページは直接確認できていません。現代のLiving W**e / Vin Vivantへの直接の継承関係も、確認できていません。
別の資料を見ると、一九三四年のOIVのBulletinにも、ワインを produit vivant、「生きた産物」とする用例があります。ただし、そこには当時の栄養、生命、エネルギーをめぐる言説が混ざっており、現在の微生物学的な意味をそのまま遡らせることはできません。[3]
同じように「生きたもの」と言っていても、何を説明し、何をよしとしているのかは、その言葉が置かれた場所によって違います。
日本語の「生きたワイン」がいつ、どのような場面で使われ始めたのかは、今回の調査では追えていません。ここで参照する欧州語の用例を、日本語表現の起源や、同じ意味で使われてきた証拠として扱うことはできません。
* * *
【ワインのなかで、何が生きているのか】
醸造の専門的な議論にも、この言い方は現れます。一九八九年のOIVで、ワイン微生物学の専門家グループは、
Par définition, le vin est un produit vivant.
「定義上、ワインは生きた産物である」
と記し、その近くで、ワインが酵母や細菌の活動の結果として成立することを説明しています。[4]
ここでは、「生きている」の近くに微生物がいます。けれど、そこから「微生物が生きている。だからワインそのものが生物である」とは言えません。
微生物のDNAが検出されたことと、その微生物が現在生きていることは同じではない。存在すること、生存可能であること、培養できること、代謝していること、増殖していることも、それぞれ別の問題です。[5]
また、瓶の中で香味が変化することが、そのまま微生物活動を意味するわけでもありません。濾過していないことも「生きている」の証明ではないし、亜硫酸を加えたからといってすべての微生物が死ぬわけでもない。過去に微生物が作った物質が残っていることと、現在そこに生きた微生物がいることも別です。[5][6]
微生物学や醸造化学によって、一語でまとめられていたものを分けて調べることができます。その区別は、ワインに何が起きているのかを確かめるために必要です。けれど造り手は、それらを別々に調べながら、一つの畑、一つの発酵、一つのワインについて判断しなければなりません。
* * *
【土に生命を戻し、その生命を測る】
——Claude & Lydia Bourguignon
ブルゴーニュで葡萄畑に深い穴を掘り、その中へ人が入っていく写真を見たことがある方もいるかもしれません。
Claude BourguignonとLydia Bourguignonです。
夫妻が設立したLAMS、Laboratoire d’Analyses Microbiologiques des Solsは、現在も自分たちの仕事を、
vous aider à redonner vie à votre sol
「あなたの土に生命を取り戻す手助けをすること」
と表現しています。
しかし、この「生命」は、測れない何かとして置かれているわけではありません。
LAMSの説明によれば、彼らは土壌断面を観察し、その物理的・化学的・生物学的状態を調べ、土壌管理を提案します。そして研究所の目的そのものが、「テロワールの土壌の生物多様性を回復することで、ワインや農産物の品質とtypicitéを改善すること」とされています。[7]
ここには、一見すると別々に思える二つの動きがあります。土を「生きたもの」として捉えることと、その生命を分析対象にすることです。生命は科学の外側へ逃げていく神秘として置かれるのではなく、むしろ生命を重要だと考えるからこそ測定の対象になります。
夫妻は現場で穴を掘り、地表から母岩までの土壌断面、根の伸び方、土壌構造を観察したあと、物理・化学・微生物学的な分析へ移ります。Claude Bourguignonはこの違いを、尿の試料だけを見る検査技師と、患者そのものを診察する医師の違いになぞらえていました。現場の土を見なければ診断できない、というわけです。[8]
ここでは、「測定」と「全体を見ること」が一緒に行われています。根を見て土に触れ、虫や土壌構造を観察し、さらに微生物学的な活性を調べ、その結果から栽培方法を考える。LAMSが掲げる「土に生命を取り戻す」という目標には、診断し、栽培を変えるための具体的な仕事が結びついています。ただし、言葉がその仕事を生み出したのか、すでに行われていた仕事を言い表しているのかまでは、この説明だけでは決められません。
けれど、夫妻の説明は土で終わりません。植物の根がどこまで伸び、根と土壌微生物がどのような関係を結べるのか、葡萄樹が母岩や粘土層へ到達できるのかを見ながら、話はterroirへ進み、さらにワインの味へ進みます。
二〇一二年のLe Mondeの記事では、夫妻の顧客の多数がワイン生産者となっており、Romanée-Conti、Anne-Claude Leflaive、Anselme Selosseらとの仕事が紹介されています。Claude自身は、科学者としてビオディナミが語る「エネルギー」を説明することはできないとしながら、ビオディナミの畑で「非常に活動的な土壌」を観察すると述べています。つまり、彼自身も「測定できる土壌の活動」と「説明できないと留保するビオディナミのエネルギー」を区別しています。[8]
Bourguignon夫妻を「ビオディナミの科学的証明」として使うことはできませんが、逆に夫妻をビオディナミと無関係な土壌分析者として切り離すことも、実際のワイン史をうまく記述しません。
Anne-Claude Leflaive自身が二〇〇六年のインタビューで語っている経緯は、その複雑さをよく示しています。
一九八九年にClaude Bourguignonと出会ったことで、彼女のなかで「話がつながった」。しかし、そのあと父親に勧められてAubert de Villaineへ連絡し、de Villaineが相談していたFrançois Bouchetをビオディナミの実践的なコンサルタントとして迎えた、とLeflaive自身が説明しています。[9]
つまり、「BourguignonがLeflaiveをビオディナミへ転向させた」という一本線ではありません。土壌を別の仕方で見ること、既存の栽培への疑問、Aubert de Villaineとのつながり、François Bouchetによるビオディナミの実践知が重なっています。
土の生命について知ることが、栽培を変える相談へ進んでいます。そのとき必要になるのは、一つの思想だけでなく、違う仕事をしてきた人たちの知識でもあります。
ここで立ち止まりたい。「土壌に微生物学的な活動がある」こと、「根が深く伸びる」こと、「葡萄樹がterroirを捉える」こと、「ワインがtypicitéを表現する」こと、そして「そのワインがおいしい」ことは同じ命題ではなく、それぞれに別の証拠が必要です。しかしBourguignon夫妻の実践では、それらが一つの畑についての連続した問題として扱われ、土を掘るところからグラスまでがつながっていく。そのつながりは研究所の説明に書かれるだけでなく、診断を受けて栽培をどう変えるか、変えた結果に何を期待するかという仕事にもなっています。期待したつながりが実際に成り立つかは、さらに確かめなければなりません。
* * *
【生きた土から、ワインの味まで】
——Nicolas Joly、Lalou Bize-Leroy、Domaine Leflaive
Bourguignon夫妻とは別の道筋から、「生きた土」をワインへ結びつけていく語りがあります。
Nicolas Jolyです。
Coulée de Serrantでは一九八四年から全ドメーヌがビオディナミで栽培されています。[10]
Jolyが中心人物の一人であるRenaissance des Appellationsの品質憲章では、ワインの味がその場所固有のものになるためには、葡萄樹が根を通じてterroirを捉えなければならず、そのためには土壌が vivant、「生きている」必要がある、と説明されます。
さらに、堆肥や有機肥料によって「土壌の微生物的生命」を支え、植物をできるだけ自然に発達させ、健全な農業によって場所が十分に「表現」できるようになれば、セラーでの技術的介入は不要となり、ときにはその表現を害する、と話が続きます。その結果として、ワインは「起源の味」と熟成能力を保持する、とされます。[11]
ここでは「生命」が非常に長い道を通ります。まず土壌に生命があり、その生命が根の働きを可能にし、根がterroirを捉えることで葡萄樹が場所を表現する。そうした葡萄であればセラーでの修正が少なくて済み、修正が少なければ場所の味が保たれ、そのワインはより独自性を持ち、熟成できる、という具合に、生命から味までが一気につながっています。
この品質憲章のなかでは、土壌生物についての話が植物生理へ移り、terroirについての説明へ移り、醸造上の選択へ移り、最後には味と品質の判断になります。そのあいだを vivant という語が横断している。ただし、説明がひと続きになっていることと、それぞれの接続が科学的に裏づけられていることは分けて考える必要があります。
しかもRenaissance des Appellationsでは、この考え方は単なる個人的な思想に留まりません。
二〇〇一年に結成されたこのグループでは、生きた土から生まれ、セラーで場所の味を変えないように扱われたワインが理念として掲げられるだけでなく、加盟時にはワインの試飲も行われます。つまり、畑の生命についての考え方が、最終的には「このワインがグループの求める品質に達しているか」という官能的・社会的判断へまで、組織的な審査として組み込まれています。[12]
ここで「生命」は土壌の性質であるだけでなく、品質を判断する仕組みにも入っています。
* * *
Lalou Bize-Leroyは、この世界観をさらに強い言葉で表現します。
彼女自身の回想によれば、一九八七年に夫からNicolas Jolyについての記事を渡され、翌年七月にJolyを訪ねます。
彼女が探していたのは、自分たち人間と同じように、
« tout est vivant »
「すべてが生きている」と考えること。
訪問から戻った同年九月、所有する葡萄畑を全面的にビオディナミへ移しました。[13]
ここでは「生命」の主語が土壌からさらに広がり、微生物だけでなく葡萄樹も土も生きており、人間もまたその生命の一つである、と捉えられます。
後年のインタビューでLeroyは、ビオディナミとは「すべてが生きていると判断し、その生を尊重すること」だと語り、剪定や枝を切ることまで、葡萄樹に何をしているのかという問題として捉えています。セラーについても、何もしないとは言わず、「任せる、監視する、絶えず介入しない」と述べ、見る、聞く、感じる、味わうことを挙げています。[14]
* * *
Domaine Leflaiveの現在の説明では、この生命の連鎖はさらに明瞭です。
「自然、大地、その環境」は、「その均衡が生命の源となる生きたシステム」であり、Anne-Claude Leflaiveは一九九六年からドメーヌ全体をビオディナミへ導いた、と公式に説明されています。
そしてビオディナミは「生命と根源的なエネルギー」を促進し、葡萄樹の健康を強め、その結果、
「ワイン自身が、均衡、繊細さ、優雅さを増す」
と記されています。[15]
ここでは、生きたシステムから生命/energyへ、そこから葡萄樹の健康、さらにワインの均衡、繊細さ、優雅さへという接続が、ドメーヌ自身によって明示されています。しかし、これらは同じ種類の記述ではありません。「土壌にどのような生物がいるのか」は記述的な問いであり、「葡萄樹が健康である」は農学的判断、「ワインが繊細で優雅になった」は官能的・評価的判断です。それでも、一つのドメーヌの自己説明のなかでは、それらが自然に連続しています。
「生きている」と語ることが、どのような畑を目指し、その畑からどのような味を期待するのかという、一つの仕事の方向を支えています。
* * *
【テロワールが「生命」によって書き換えられる】
Rory A. D. Hillの研究では、terroirという言葉の方にも変化が見えてきます。
Hillの論文タイトルは、
‘Le terroir, c’est la vie’: Re-animating a concept among Burgundy’s w**e producers
です。
「テロワールとは生命だ」。
しかし、Hillが主張しているのは、「terroirの本当の意味は生命だった」ということではありません。
彼がブルゴーニュでのインタビューと参与観察から分析しているのは、有機栽培やビオディナミの生産者が、土壌、生物多様性、景観などへ注意を向けることによって、それまで農学的・文化的・経済的な複数の意味を持っていたterroirへ、新しい生態学的な次元を前景化していることです。環境に配慮した栽培方法が、terroirという既存の価値体系のために「実践的にも修辞的にも動員され」、その結果としてterroirについての感覚そのものが変化している、とHillは分析します。[16]
この分析を手掛かりにすると、JolyやLeroy、Leflaiveの語彙も別の角度から見えてきます。「生きた土によって、本来のterroirが回復された」というだけではなく、「生きた土」という新しい語彙と実践によって、何をterroirとして数えるのか、その概念自体が変わっている可能性があるのです。
第2回で扱った type Bourgogne と少し似ています。
カテゴリーは、すでに完成した対象のなかからただ発見されるとは限らない。比較し、測り、評価し、語る実践によって、「Bourgogneらしさ」を構成する条件自体も変わっていく。
土の何に注意を向けるかが変われば、その土からできたワインの何を確かめたいかも変わるのでしょう。Hillの分析からは、生命への関心が、terroirを知ろうとする実践そのものに関わっていることが見えてきます。
二〇二六年のSiimes、Lewis、Sharpの論文も、terroirが土、気候、微生物など、本来なら別々に分析できるものを一つのワインの説明へ集める強力な言説として働き、地質的・植物的・微生物的な非人間の働きをワインの品質へ接続することを指摘しています。[17]
ここまで来ると、「生命」という語が土を説明しているのか、それとも「生命」を語る実践によってterroirの方が変わっているのか、簡単には分けられなくなります。
* * *
【牛の角と顕微鏡のあいだ】
生命をめぐる語りが栽培の仕事へ入ると、異なる知識が同じ場所に並びます。人類学者Christelle Pineauの著書『牛の角と顕微鏡』は、その並びを題名にもしています。
彼女が調査したフランスの自然派ワインの世界では、ビオディナミ、微生物学、感覚的な知識、ラボでの分析は、科学と信念という二つの陣営へ簡単には分かれません。[18]
自然か科学か、感覚か測定かという二択では整理しきれず、現場では牛の角と顕微鏡が並んでいます。
この点で、Bourguignon夫妻とJolyの違いも、「科学対神秘」という単純な図にしない方がよさそうです。
Bourguignon夫妻は土壌を測りながらビオディナミの畑の活性を観察し、Jolyは自然の諸力を語りながら品質憲章や栽培条件を詳細に規定し、Leflaiveは生命とenergyを語りながら実務として畑を管理しています。
生命という言葉は、科学が終わる地点に現れるのではなく、異なる知識の形式が接触する場所にも現れています。
* * *
【葡萄や発酵の変化に合わせる】
——Denis Chartier
葡萄の変化を捉えることは、人間の仕事の時期にも関わります。Jeremy Briceの二〇一四年の論文は、オーストラリアの大規模なワイン企業における収穫判断を扱っています。公開要旨によれば、化学的な検査や感覚によって葡萄の成熟を捉える実践が収穫の時期を形づくる一方、適期を捉える複数の実践は互いに干渉し、働く人たちのあいだに緊張も生じます。[19]
セラーでも、変化を捉える仕事は、感覚と分析の両方にまたがっています。
Denis Chartierが調査した自然派ワインの造り手たちは、発酵槽へ耳を近づけて酵母の音を聞き、匂いを嗅ぎ、温度を感じますが、同時に果汁をラボへ送り、窒素量を調べ、必要ならスターターも作ります。
Chartierが引用するStefano Azzoniは、自分の仕事を“control”ではなく“monitoring”と表現し、羊飼いが群れを見るようにワインを観察すると語っています。
ここでは、介入を小さく保つことが、変化への注意を必要としています。聞き、嗅ぎ、測り、待ちながら、手を加えるかどうかを判断する。少なくともChartierが調査した造り手たちにとって、「見守る」ことには、それだけの仕事が含まれています。[20]
この「見守る」という姿勢は、Leroyがセラーについて語った「任せる、監視する」を思い出させます。同じ理論を共有しているということではありませんが、異なる場所で、似た仕事の捉え方が現れています。
* * *
【何を生かし、何を抑えるのか】
発酵を見守ると言っても、どの変化も同じように待てるわけではありません。葡萄を守り、発酵を進め、人が飲めるワインへ仕上げるためには、ある働きを促し、別の働きを抑える必要があります。
Romanée-Contiの記録では、その判断が病害への対応として現れます。
二〇〇七年は湿度が高く、ミルデュー、ウドンコ病、ボトリティスへの対応が難しい年でした。
ドメーヌ自身は、その年の記録で、それらの病害と闘いながらも、
nos options « bio » (biologie et biodynamie)
という自分たちの選択の範囲を外れずに対処できたのは、栽培責任者とチームの「絶え間ない注意」によるものだった、と書いています。[21]
病原体を抑え、葡萄を守るために、天候と病害を見ながら必要な仕事をしなければならない。一方で、そのために使う手段には制限を設けています。「生きたものを尊重する」という姿勢も、畑では、何を守り、何に対処するかという選択を伴います。
* * *
その選択は、誰が、何を望ましいものとみなすかにも関わります。Heather Paxsonの生乳チーズ研究を重ねると、この問題がはっきりします。
Paxsonが“post-Pasteurian”と呼んだ職人たちは、微生物をすべて除去すべき敵だとは考えません。乳酸菌や熟成菌が働かなければチーズはできませんが、だからといってすべての菌を歓迎するわけではなく、「よい微生物」が働ける条件を作り、「悪い微生物」が優勢にならないようにします。
Paxsonは、こうした微生物をめぐる政治を“microbiopolitics”と呼びます。[22]
ここでPaxsonが見せるのは、単に「何を生かすか」という選択だけではありません。どの微生物を望ましい/望ましくないものとして分類し、どの働きを価値づけ、その評価に応じて人間の行動をどう組織するのか――その分類、評価、人間の行動の組み合わせがmicrobiopoliticsです。
* * *
Jamie Lorimerが The Probiotic Planet で考えているのは、生命を排除して秩序を作る“antibiotic”な管理から、「生命を使って生命を管理する」probioticな管理への変化です。
本の副題そのものが、
Using Life to Manage Life
です。[23]
ある生命の働きを利用して環境を整え、別の生命の増え方や働き方を変える。Lorimerが捉えるprobioticな管理では、微生物群集や生態的な関係そのものが、介入の手段になります。
ただし、その関係を調整できる余地は、どの場面でも同じではありません。『With Microbes』の編者たちは、何が問題とされ、誰が、何のために規制するかによって、その余地が開かれも狭まりもすると指摘しています。[24]
* * *
農家が自分たちの仕事をどう評価するかにも、この問題は及びます。Anna Krzywoszynskaは、再生農業における土の測定に注目しています。
土を「生きた生態系」として捉え、農家が土の匂いや手触り、植物の状態を通じて関係的・身体的に知ろうとする実践は、一見すると数値中心の農業からの離脱に見えます。しかし農家自身が、本当に土は改善しているのか、微生物群集はどう変化したのかをもっと確かめたいと考えれば、メタゲノム解析などを使って微生物を再び測定可能な対象へ変えることになります。生命をよく知りたいから測り、測ることで比較が可能になります。その論理をさらに押し進めれば、比較から基準が生まれ、「良い農場」「悪い農場」「改善した農家」「改善していない農家」を評価することもできるようになります。
Krzywoszynskaは、こうして計算や比較を可能にすること(calculability)が、従来の農業における統治性(governmentality)を消すとは限らず、むしろ新しい形で強める可能性を指摘しています。[25]
土を測ることが、土と付き合う農家自身を評価することへもつながっていきます。
* * *
先ほどterroirの側から参照した二〇二六年のSiimes、Lewis、Sharpも、微生物をワインの価値へ迎え入れる動きと、栽培で抑えなければならない生物との関係を論じています。
彼らはワイン世界で、microbial terroir、natural w**e、wild fermentationなどを通じて、微生物が以前より明示的にワインの価値へ組み込まれる“microbial moment”を論じています。しかし、ビオディナミが他の農法より道徳的にも技術的にも本質的に優れている、と主張しているわけではありません。[17]
ビオディナミや有機栽培でも、病害を防ぐために銅や硫黄を使います。[17] 葡萄を栽培し、収穫し、人間が飲むワインを造るという目的のもとで、ある生命を育て、別の生命を抑えています。私が気になるのは、その選択に、微生物や葡萄樹についての知識だけでなく、人が求める味や品質も関わっていることです。
Bascuñanaの「自然/人工」という区別を思い返すと、生命についての理解が、許される仕事とそうでない仕事を分けていたことが気になります。ここで見た実践も、生命を大切にするというだけでは、その扱い方が一つに決まりません。同じ立場や歴史の続きだということではなく、生命をどう理解するかと、何をよしとするかを、その都度一緒に考えなければならないのです。
* * *
【生命を止めたあとにも、残るもの】
望ましくない働きを抑えるとき、私たちは何を止めているのでしょう。Jeremy Briceは、別の論文で、生命を「殺す」側からこの問題へ入ります。
Killing in More-than-human Spaces: Pasteurisation, Fungi, and the Metabolic Lives of W**e.
南オーストラリアでBotrytis cinereaの影響を受けたワインを加熱処理する現場を調査した論文です。
普通に考えれば、pasteurisationとは微生物を殺す技術です。ところがBriceは、殺される対象を「菌という個体」だけに限定すると実際に起きていることをうまく記述できないと考えます。Botrytisが作った細胞外酵素はすでにワインの液体のなかへ拡散しており、菌体が一個体として存在する場所と、その代謝作用が働く場所は一致しません。そのため加熱処理が作用するのは、Botrytisの身体だけではなく、ワインという液体に広がった代謝過程でもあります。
Briceは、こうして菌体の外にも広がる代謝過程を捉えるために、“metabolic lives”という分析語を使います。[26]
しかし、この分析によって「生きたワイン/死んだワイン」という言い方が急に不安定になります。
微生物を殺したら、あるいはある代謝を止めたら、ワインは死ぬのでしょうか。人間にとって望ましくない代謝だけを止めたいと思っても、加熱は液体全体に作用するため、生命と死の境界は一個体の生死だけでは記述できません。
* * *
Nikolai SiimesのBrettanomyces研究は、その先を見せます。
Brettanomyces、通称Brettは、ワインの世界では少し厄介な微生物です。馬小屋、革、薬品などと表現される香りと結びつき、典型的なw**e faultとして排除されることがある一方、その程度やワインのスタイル、飲み手によっては複雑さや個性として肯定的に評価されることもあります。Siimesが関心を向けるのは、Brettが「よい菌か、悪い菌か」という分類そのものより、Brettが異なるワイン、場所、市場、飲み手との関係のなかで何をするのか、という問題です。[27]
その議論へ入る前に、Brettにはもう一つ、「生きている」とは何かを考えるうえで興味深い性質があります。冒頭で抽象的に分けた「存在すること/培養できること/生きていること」の線が、Brettでは実際の醸造上の問題として現れます。
SiimesはBrettを VBNC(viable but non-culturable) と結びつけて紹介しています。微生物学的にもう少し正確に言えば、Brettanomyces bruxellensisは、ワイン中のストレス条件、とくにSO₂への曝露などによって、viabilityを保ちながら通常の培養条件ではコロニーを形成できなくなるVBNC状態へ移行しうることが実験的に示されています。[28][29]
ここでいう「培養できない」は、「死んでいる」という意味ではありません。微生物が存在するかを調べる古典的な方法の一つは、試料を培地へ移し、増殖してコロニーを作るかを見ることですが、VBNC状態では、この方法では検出できなくなっていても別のviability指標では生存可能性が残っている場合があります。Brettでは、SO₂によってculturabilityを失いながらviabilityを維持した細胞が、SO₂のストレスを弱めると再び培養可能になったことも示されています。[28]
つまり、
検出できること、培養できること、生存可能であること、代謝していること、増殖していることは、同じではありません。
DNAを検出できたからといって、その細胞が現在生きているとは限りませんし、反対に培地でコロニーができなかったからといって、それだけで死んでいるとも言えません。さらに、VBNC状態で代謝活動がどの程度残るかも一様ではありません。SO₂ストレス下のBrettで揮発性フェノール生成が続きうるとした研究がある一方、別の赤ワイン条件ではVBNC細胞が4-ethylphenolを生成しなかったという報告もあります。[28][29][30] したがって、VBNCを「見えないけれど活動し続ける菌」と単純化することもできません。
ここまで分けてみると、「Brettがいる/いない」という一見単純な問いそのものが、かなり複雑であることが分かります。
そしてSiimesの議論は、そこからもう一方向へ進みます。
Brettが活動して作った4-ethylphenolや4-ethylguaiacolなどの揮発性フェノールは、Brettの細胞そのものが後から除去されたとしてもワインに残り、その味や匂いとして経験されることがあります。Siimesは、この残り方をBrettの “afterlife” と呼びます。[27]
このafterlifeは、先ほどのVBNCとは違います。VBNCでは、そこに生存可能な細胞がいるのに通常の培養では見えなくなることがある。afterlifeでは逆に、Brettの身体そのものがすでに除去されていても、それが行った代謝の結果が残り、人間はその痕跡に匂いや味として出会います。
Siimes自身が書くように、私たちがグラスのなかで出会うBrettは、微生物の身体そのものというより、Brettが残した味や匂いであることが多いのです。[27]
すると少なくとも、生きている微生物、微生物の代謝、代謝産物、感覚としての匂い、そして「複雑だ」「馬小屋臭だ」「魅力的だ」「欠陥だ」という評価を、一つずつ分けて考えなければなりません。
DNAや化学分析によってBrettやその代謝物を同定できても、それだけで飲み手がどう反応するかは予測できない、とSiimesも指摘しています。またBrettのagencyについても、単に「微生物にもagencyがある」と言うだけでは十分ではなく、重要なのはその働きがどのように現れ、どのような結果を生むかだ、と彼は論じています。[27]
生命がそこにいることと、生命が何かをしたことは同じではありません。そして生命がしたことは、その生命がそこからいなくなったあとにも残る。
生命は、ときに「痕跡」として味わわれます。
* * *
【生命を、どこで捉えているのか】
Brettの身体と、その働きと、私たちが味わうものは、必ずしも同じ場所、同じ時間に重なっていません。このずれを考えるとき、科学・生物医学の人類学者Charlotte Brivesの議論が手掛かりになります。
Brivesが研究しているのはワインではなく、主としてバクテリオファージと細菌の関係です。ファージは宿主細胞の代謝機構を利用して増殖するため、ウイルスを「生物」と呼ぶべきかという問題は長く議論されてきました。Brivesも、ウイルスが単純に生物とも非生物とも言い切りにくい「生命の縁」に置かれてきたことから議論を始めます。[31]
ただ、彼女が問い直すのは、一つの存在を他との関係から切り離し、その内部に「生命」という属性があるかどうかだけを問うことで十分なのか、ということです。
ファージ療法の現場でBrivesが聞いた言葉に、ファージは単独では考えられず、常に phage / bacteria pair、ファージと細菌の対として現れる、というものがあります。あるファージがどの細菌に作用するかは、場所や時間、両者の変化によっても変わります。[31]
しかも、その関係のなかでファージや細菌自身も変わります。ファージが細菌を破壊する場合もあれば、ファージの遺伝物質が宿主へ組み込まれる場合もある。Brivesが用いる pluribiosis という言葉は、こうした複数の関係のスペクトルのなかで、存在そのものが絶えず生成し、変化していることを捉えようとするものです。最初から固定された個体があって、あとから関係が加わる、とだけ考えることはできません。[31]
Brivesが調査した研究室では、分離したファージと細菌の両方を凍結保存し、調べたときの関係を保とうとしていました。ある対について得られた知識を次の実験でも使うには、保存や取り扱いによって両者の変化を抑えなければなりません。Brivesはこうしたコレクションを、ファージ、細菌、人間、環境の変化し続ける関係史――彼女のいう microgeohistory――の、ある瞬間を切り取ったものとして考えます。[31]
ここでは、過去の働きが痕跡として残ることに加えて、調べている対象を、どの関係と条件のもとで同じものとして保っているのかが問われています。分離し、名づけ、保存する仕事そのものが、生命について知るための条件になっています。
これをワインそのものの生命の証明にはできません。ただ、Brettの細胞を調べることと、ワインを飲んでその働きに出会うことを、「同じBrettについての話」として結ぶときにも、どの条件を揃え、何の違いを残しているのかは問いたいと思います。
「ワインは生物か、非生物か」という問いだけでは、今回見てきたもののかなりの部分がこぼれ落ちるのです。
* * *
【ワインそのものを「生きた存在」と呼ぶ】
——Hervé Jestin
しかし、ワインそのものを一つの生きた存在として捉え、醸造の仕事を組み立てている人もいます。Hervé Jestinはワインを、
un être vivant
「生きた存在」
として語ります。
Jestinは醸造学の教育を受け、長くChampagneの醸造に携わってきた人物です。
本人の二〇二五年の回想によれば、醸造の経験を通じて、通常の生化学的なパラメータだけでは自分が観察している現象を十分に扱えないと考えるようになり、
「ワインは生きた存在なのだと理解した。醸造を導くには、ワインに伝える情報を管理しなければならない」
と語ります。[32]
Jestinは「微生物が生きているからワインは生きている」とだけ言っているわけではありません。彼の vivant はもっと広く、ワインは周囲から「information」を、自然から「energy」を受け取り、それを保持したうえで、最終的には飲む人間へ伝えると考えられています。
Terre de Vinsのインタビューでは、ビオディナミの目的について、単に「味のよいワインを造ることではない」とまで述べています。
彼によれば、ワインが自然から得たenergyとinformationを蓄え、それを飲み手へ伝えることで、人間を自然との関係へ再接続することが目的になる。[32]
ここでは話が、葡萄からワインへ、ワインから自然へ、さらに飲み手へと進みます。
Living W**eの意味空間が、農業や醸造を越えて、人間と自然の関係についての世界観へ広がっています。
* * *
ただし、Jestinが語る「情報」や「energy」、Lecher antenna、宇宙的・地上的なエネルギーの均衡を、本稿では科学的に確立した事実として扱いません。ここで資料として読んでいるのは、Jestin自身が自分の実践を理解するために使っている言葉です。
二〇二〇年の取材では、彼がLecher antennaを用いて宇宙的/地上的なenergyを測ろうとし、象徴的な数を使った添加を行い、ワインを物質的なものだけでなく「spiritual being」としても語る様子が紹介されています。一方で、亜硫酸添加を完全に拒否しているわけではありません。必要と判断すれば使用し、その上で彼自身の体系では「energy的な影響」を別の方法で調整すると説明しています。[33]
通常の醸造分析と、科学的に確立されていない別の認識体系が、一人の醸造家の仕事のなかで同時に使われています。その併用が仕事をどう方向づけるかは調べられますが、併用されているという事実だけで、energyやinformationについての説明が裏づけられるわけではありません。
二〇二五年のLe Mondeの取材では、その並置が非常にはっきりしています。
発酵中のワインの記録にはpH、温度、濁度、窒素量が書かれている一方で、同じ資料に月の位置、星座、潮汐係数も記され、さらにLecher antennaを発酵槽に当てて「energy」やワインの「内的状態」を測ろうとします。[34]
pHか月か、ではありません。一人の醸造家の仕事のなかで、両方が並んでいるのです。
Pineauの「牛の角と顕微鏡」という題名が、ここでも戻ってきます。
* * *
Jestin自身は、Rudolf Steinerはワインについて体系的には書いていない、とも述べています。
つまり、現在Jestinが行っている「醸造のビオディナミ」は、Steinerから完成したワイン醸造法を受け取ったものではありません。
Jestin自身が、葡萄栽培に用いられてきたビオディナミの考え方を、発酵中のワインへ拡張しているのです。
「ビオディナミのワイン醸造」という伝統が最初からそこにあって、それを継承しているというより、ワインを「生きた存在」と見ることによって、畑で用いられていた概念をセラーの内部へ運び込んでいるのです。[32]
ここでも、生命という語が異なる実践領域の距離を縮めています。
* * *
〈感じられるenergyと、説明されるenergy〉
そして、このJestinの言説は前回扱った energy とつながります。
第7回では、「このワインにはenergyがある」という現在のテイスティング語を見ました。その場合のenergyは通常、物理学的なエネルギー量を報告する言葉ではなく、ワインが口の中で動き、時間的に展開し、酸や果実や触感が緊張を保ち、飲み手がそこに活力を感じるといった複数の感覚をまとめる評価語でした。
ところがJestinのところへ来ると、同じenergyが、ワインが自然から受け取り、保持し、飲み手へ伝えるものとして語られる。
Domaine Leflaiveでも、「生命と根源的なenergy」が栽培実践から葡萄樹の健康、ワインの品質へ接続されていました。[15]
二つの用法を並べると、「飲んで感じたこと」を記述する語と、「ワインがどう存在しているか」を説明する語のあいだに、同じenergyが置かれています。ただし、テイスティング語からJestinの語へ歴史的に移った、と示せたわけではありません。
感覚としての活力を認めることと、自然から特定の力が伝わるという説明を認めることは、別の判断です。その一方で、Jestinの場合には、その説明が醸造の記録や判断にも入り込み、言葉と仕事とが結びついています。Living / vivantをたどるときにも、用法の違いと、その用法を支える実践の両方を見る必要がありそうです。
* * *
【時間のなかで「生きている」】
——Serge Hocharからstableへ
ところが、ワインを生きたものとして語るために、Jestinと同じ説明が必要なわけではありません。Château MusarのSerge Hocharが語る「生命」には、変わっていくワインと、それに付き合う時間が深く関わっています。
Hocharは、ワインを“living w**e”と呼び、人間とワインとの関係を“living relationship”として語っていました。[35]
二〇〇九年には、
“W**e should not be stable and dead.”
と述べ、そのあとワインは瓶の中でevolveし、changeする“living product”であるべきだ、と説明しています。[36]
ここでは、「生きている」の中心に微生物ではなく時間があります。同じワインが今日と明日で違い、瓶の中で熟成し、開栓後にも変わっていくのを人間が待つ。Hocharにとって“living”は、こうして変化する可能性を持ち続けていることと強く結びついています。
そうすると冒頭の、
vins « vivants » mais stables
がまた不思議になります。
* * *
二〇一〇年のDelinatの私的な品質基準には、
vins vivants, biologiquement stables
「生きていて、生物学的に安定したワイン」
という表現があります。[37]
同じ文書のなかには、生物多様性、terroir、熟成能力、亜硫酸、培養酵母、濾過などが並んでいます。[37]
すると、Barretではlivingでありstable、Hocharではstableでありdead、Delinatではlivingでありbiologically stableという三つの表現が並びます。
矛盾しているようですが、それぞれが置かれた文脈を読むと、少なくとも同じ「stable」を語っているとは考えにくい。
本稿では、Hocharのstableを、変化しなくなり、時間のなかで固定されてしまったワインという評価的・時間的な意味として読みます。Delinatのbiological stabilityは、その醸造上の文脈では微生物学的な安定性として読めます。Barret自身はstableが何を指すかを明示的には定義していませんが、同じスレッドで酸化・還元、熟成、鮮度が論じられている文脈から、本稿では、生き生きとした変化を保ちながら飲み手にとって受け入れられる安定をどう確保するのかという実践的な問題として読んでいます。
“living”の意味を確かめようとすると、それと組になる“stable”も、文脈ごとに読み直さなければなりません。
だから、
dead(死んでいる)
sterile(無菌の)
stable(安定している)
filtered(濾過されている)
standardised(標準化されている)
predictable(予測できる)
を、すべて「死んだワイン」の同義語として束ねることはできません。
* * *
【造り、飲み、確かめ直す】
ワインを生きたものと呼ぶ人のあいだにも、安定を求める言い方と、安定を死に結びつける言い方があります。その違いを、言葉の意味の違いとして分けることはできます。けれど、何を安定させたいのか、どの変化を待ちたいのかは、それぞれが造り、飲み、確かめてきたワインとも関わっているはずです。
この点を考える手掛かりになるのが、ワインの品質や評価を研究してきたGeneviève Teilのテロワール論です。
Teilは、テロワールを、あらかじめ完成した性質として取り出せる対象なのかと問います。彼女が描くのは、栽培や醸造と、その結果を味わい、比較し、議論することを通じて、テロワールとその評価がともに形づくられる過程です。一つの瓶や一回の判断に収まらず、複数のワインと、それらを吟味する実践に分散して現れる対象として捉えています。[38]
その過程では、造り手の意図が実現しないことも、飲み直すと評価が変わることもあります。何でもテロワールと呼べばよいのではなく、期待と結果を照らし、見落としていたものを確かめ直す。その吟味が続くことを、Teilは重視しています。[38]
別の論文の公開要旨によれば、造り手と畑との共同の仕事から生じる多様な品質を、typicitéの審査がどう評価できるのかが論じられています。保証するための基準を設けながら、新しく生まれる表現にも開かれていること。その両立の難しさが問題になります。[39]
ここから先は、Teilの議論を手掛かりに、私が「生きている」という言葉について考えていることです。
共同で吟味するとしても、誰の経験が聞かれ、どの異論が取り上げられるかは問われます。複数の人が認めていることだけで、評価が閉じてしまう可能性まで消えるわけではありません。
冒頭のフォーラムでBarretは、時間を置いたワインが生気や鮮度を取り戻した経験を語っています。ところが別の参加者は、開栓後、栓をして冷蔵庫に置き、数日にわたって飲んでも改善しなかったワインを挙げていました。[1] 同じ瓶を同じ条件で比較した記録ではなく、どちらの説明が正しいかをここから決めることはできません。それでも、期待した変化と実際に経験した変化のずれが、話し合われています。
「生きている」という判断にも、こうした経験を照らし合わせる余地があります。何を感じてそう言い、飲み直したあとにはどう判断したのか。相手と意見が異なるなら、どのワインを、どのような条件で飲んだのかも確かめる必要があります。
微生物の生存を調べることと、こうしてワインに付き合うことでは、確かめている内容が違います。どちらの結果も、もう一方の問いへの答えとして、そのまま移すことはできません。
もちろん、Teilのテロワール論を、そのまま「ワインが生物である」という根拠にはできません。「生きている」と感じた経験を丁寧にたどっても、その原因が特定の微生物やenergyにあると示されたことにはならない。その因果関係を主張するなら、それを支える証拠が必要です。
それでも、「生きている」という一語を、測定結果に直せないからといって、何も確かめようのない感想として片づけるのは早いと思います。何に気づき、どう扱い、どのように飲み直し、どこで判断が変わったのかは、具体的にたどれます。
* * *
【「生きている」が結びつけるもの】
土に生命を戻そうとする仕事から始めると、測定と栽培がつながり、葡萄の変化を追えば、収穫の判断や人間の予定が動きます。発酵を見守る仕事には、望ましい働きを促し、別の働きを抑える選択が含まれる。微生物の身体を取り除いたあとにも、その働きの結果は味や匂いとして残り、瓶の変化を待つところでは、飲み手も、その変わった味を確かめながら判断を重ねます。
こうした関係のすべてを、「生きている」という言葉が作り出したわけではありません。糖度を測ることも、発酵を待つことも、ワインを飲み直すことも、その言葉を使わずに行えます。ただ、生命を重視する説明が、土のどこを見るか、どの変化を待つか、何を守るかに方向を与えている用例はありました。
そして「生きている」と言うことで、普段は別々に話されるそれらの仕事が、一つのワインについての説明として見えてくることがあります。
ただし、ここで一緒に考えてきたもののすべてが、造り手自身の語りのなかで結びついていたわけではありません。JolyやJestinには、本人たちが土やワインや飲み手をつなぐ説明があります。他方、BriceやBrives、Teilの研究を読み合わせたところには、私がワインを考えるために見いだした接続もあります。この二つを区別しながら、「生きている」という語の働きと、その語を手掛かりに見えてくる実践を考えたいと思います。
* * *
それぞれの仕事のなかではつながっていても、同じことを言っているわけではありません。
「土壌に微生物学的な活動がある」という記述と、「このワインはterroirをよく表現している」という判断。「微生物が生存している」ということと、飲んだときに生命感があること。瓶の中で変化することと、その変化を好ましいと感じること。それぞれについて、何をどのように確かめればよいかは違います。
同じワインの味を支えている関係をたどるためにこそ、どこまで観察できていて、どこからが説明であり、何を期待し、何をよいと判断しているのかを区別したいのです。
ところが、living、vivant、「生きている」という一語は、ときにその区別を見えにくくします。
「生きた土だから、よいワインになる」と言えば、土壌生物から官能的な品質まで、確かめるべき関係を一文で飛び越えられる。「自然に任せたワインだ」と言えば、測定、温度管理、観察、待つこと、介入しないという判断までが消えてしまうことがあります。生命を尊重する農法と、味のよさや倫理的な優位までが、同じ肯定のなかへ入ってしまうこともある。
一九三三年のBascuñanaの講演に見たように、生命についての説明は、どのワインを自然と認めるかという区別にもなりえます。現在の私たちが「生きたワイン」と言うときも、その裏側に「そうでないワイン」を置いていないかは、気にしておきたいと思います。
これは、区別すること自体をやめれば済む問題でもありません。病害への対処も品質の評価も、区別する仕事を含んでいます。問いたいのは、何をもとに区別し、その判断をどこで確かめ直せるのか、ということです。
* * *
Teilを読んだあとでは、「いま、どの話からどの話へ移ったのか」という問いに加えて、その移動を支えている実践へも目が向きます。畑についての説明とグラスの経験がつながっているなら、そのあいだにどのような仕事があり、どのような吟味があったのでしょう。確かめたことと、これから確かめたいことは、まだ同じではありません。
* * *
【「このワインは生きている」】
それでも、ワインを飲んでいると「これは生きているな」と思うことがあります。そのとき私は、OIVの報告書や土壌微生物数を思い浮かべているわけではなく、Bourguignon夫妻の土壌断面も、Renaissance des Appellationsの品質憲章も頭にはありません。
香りが変わり、さっきまでなかったものが出てきて、酸や果実や触感がばらばらではなく何か全体として動いている。グラスを置いておけば、こちらが何もしなくても次に飲んだときには少し違う。そのくらいのことです。
けれど、その何気ない「生きている」という一語を追ううちに、グラスの中の変化は、畑やセラーで生じていることとも重なって見えてきました。微生物の働きと、それを見守り、ときには止める人間の判断。その判断が支える味と、そこに価値を見いだし、ときには考え直す飲み手の身体です。
「生きている」と言った人が、そのすべてを意識しているという意味ではありません。言葉は、使うたびに自分の歴史を全部説明する必要などないからです。今回読み比べた用例や実践のあいだにも、直接の継承を確認できたわけではないものが残っています。
Living W**e / Vin Vivantを、どのワインにも同じように備わる一つの性質の名前として定めるのは難しそうです。それでも、その言葉が何を捉えようとしているのかは、造り手や飲み手の言葉、その言葉とともに行われている仕事から考えていけます。
「生きていて、安定している」。冒頭では少し妙に聞こえた言い方も、どの変化を保ち、どの変化には対処したいのかという仕事を思うと、違って聞こえてきます。ただ、その両立がうまくいっているかどうかは、「生きている」という言葉だけでは分かりません。
次に飲んだとき、私もまた、同じように感じるのでしょうか。
いま、生きていると言われたのは何だったのでしょう。
微生物でしょうか。それとも、葡萄樹や土でしょうか。発酵でしょうか。変化する時間でしょうか。あるいは、それらと付き合うなかで感じられた何かでしょうか。
その言葉のまわりに、どのような仕事や経験、確かめ方があったのでしょう。
その「生きている」という一語によって、いま何と何がつながったのでしょう。
* * *
【注・参照資料】
[1] La Passion du Vin, forum thread “Domaine Stéphane Bernaudeau.” Philippe Barret, post #21, 9 March 2005; Guest, post #22, 9 March 2005; René, post #24, 10 March 2005.
https://www.lapassionduvin.com/loire/37549-domaine-stephane-bernaudeau
Barretが低亜硫酸ワインの時間的変化を論じたうえで vins « vivants » mais stables と書き、その後、Renéと署名した投稿が Vive le vin, vive la vie, vive le vin vivant. と応じる。RenéをMosseと読むのは、 .M.署名と、 Mosseに呼びかける応答関係に基づく判断。後半では #21と #22の、時間を置いたワインの変化についての異なる経験も参照した。個々の投稿者による経験と解釈の記録であり、酸化・還元等の診断の正しさを本稿で確定したものではない。
[2] Pablo Alonso González, “W**e is alive: the vitalist and theological roots of natural w**e in 19th and 20th century Spain,” Humanities and Social Sciences Communications 12 (2025): article 701.
https://doi.org/10.1057/s41599-025-05036-y
同論文が引用するLucio Bascuñana y García, El vino como producto comercial: conferencia pronunciada el 23 de Marzo de 1933 en la Escuela de Comercio de Jerez(1933)のp. 32(生命としての説明)、p. 13(自然/人工の区別)、p. 15(科学の役割)を参照。本文の説明はAlonso Gonzálezを介したものであり、1933年原本の該当ページの直接読解ではない。原本の書誌・所蔵はカディス大学リポジトリで確認:https://rodin.uca.es/handle/10498/33065。現代のLiving W**e / Vin Vivantへの直接の伝播経路は未確認。
[3] Office International du Vin, Bulletin de l’Office International du Vin, no. 75, August 1934.
https://pandor.u-bourgogne.fr/pleade/functions/ead/detached/BOIV/BOIV_1934_08_n075.pdf
Le vin est un produit vivant, une réserve d’énergie, une source de vie. という用例。栄養、vitamines、当時の生命・energy言説が近接しているため、現在の微生物学的意味へ直線的に遡らせない。
[4] Office International de la Vigne et du Vin, “Rapport d’activité de l’O.I.V. en 1989,” Groupe d’experts « Microbiologie du Vin », Bulletin de l’O.I.V., nos. 705–706, 1989.
https://pandor.u-bourgogne.fr/pleade/functions/ead/detached/BOIV/BOIV_1989_11-12_n705-n706.pdf
Par définition, le vin est un produit vivant. に続き、ワインが酵母・細菌の活動の結果であると説明する。
[5] V. Millet and A. Lonvaud-Funel, “The viable but non-culturable state of w**e micro-organisms during storage,” Letters in Applied Microbiology 30 (2000): 136–141.
https://doi.org/10.1046/j.1472-765x.2000.00684.x
ワイン中の微生物について、培養できないことと生存可能性が同じではないこと、SO₂や酸素条件がVBNC状態と関係しうることを示す。
[6] Javier Echave, Marta Barral, Maria Fraga-Corral, Miguel A. Prieto, and Jesus Simal-Gandara, “Bottle Aging and Storage of W**es: A Review,” Molecules 26, no. 3 (2021): 713.
https://doi.org/10.3390/molecules26030713
瓶内熟成に伴う香味変化が、微生物活動だけでなく酸化・還元を含む複雑な化学変化によって生じることを整理する。
[7] LAMS, Laboratoire d’Analyses Microbiologiques des Sols, official site, accessed 5 September 2026.
https://lams-21.com/
LAMSの使命、土壌断面の観察、物理・化学・生物学的分析、terroirの生物多様性とquality / typicitéへの接続を確認。
[8] “La terre vue du sol,” Le Monde, 28 January 2012.
https://www.lemonde.fr/archives/article/2012/01/28/la-terre-vue-du-sol_4327062_1819218.html
Bourguignon夫妻の土壌断面観察と分析、ワイン生産者との仕事、Claude Bourguignonによるビオディナミの“energy”への科学的留保を確認。
[9] Clive Coates, “Woman in White,” Decanter, 2006.
https://decanter.media.ipcdigital.co.uk/11150/000009f95/36f5/Decanter-Leflaive-Interview-2006.pdf
Anne-Claude Leflaiveが1989年にClaude Bourguignonと出会った後、Aubert de Villaineを介してFrançois Bouchetをビオディナミの実践的コンサルタントとして迎えた経緯を語る。
[10] La Coulée de Serrant, official vineyard presentation, accessed 5 September 2026.
https://coulee-de-serrant.com/
ドメーヌ全体のビオディナミ移行時期など、基本的な沿革を確認。
[11] Renaissance des Appellations, “Charte de Qualité Renaissance des Appellations,” official site, accessed 5 September 2026.
https://renaissance-des-appellations.com/fr/charte-de-qualite-renaissance-des-appellations/
生きた土、根、terroir、土壌の微生物的生命、栽培