03/09/2026
9月です。
本日定休日です。
8月が終わるとともに秋風が吹き、今日から一週間ほどは傘マークの連なる天気予報であるなんていうのは全くもって秋らしい長雨の様子で、季節の移ろいを形にしたかのようである。そんな移ろいゆく季節を感じながらも一歩一歩進んでいく当店月初のお決まりといえば、そう、ウィグタウン読書部ですね。
というわけで先月の課題図書は大江健三郎『同時代ゲーム』。世界の大江だってんで、読みにくいものかな、みたいな気持ちで読み始めたわけなんですが、これが果たして読みにくい。しかし、その読みにくさっていうのは文体の硬さというよりは、物語の設定に由来しているような感じがして、というのもこの物語は、幕府に追われてどこか四国の山奥に自分たちだけの〈村=国家=小宇宙〉を築き上げた創建者たる〈壊す人〉にまつわる物語で、語り手はその〈壊す人〉の神話を伝承する役割を〈父=神父〉から担わされており、それを〈壊す人〉の巫女たる妹に書簡の形式で語りかけるという構成がなされており、つまりは神話の伝承。その成り立ちから始まり、〈村=国家=小宇宙〉に伝わる、さまざまな登場人物と寓話性を伴った逸話が次から次へと繰り出されるのであって、読者はこの段になって知らない宗教に関する神学を学ぶ聴講生と成り果てる。時にその神話は〈壊す人〉以前の土地の物語にまで遡及しながら、SF的世界観を内包して広がっていく。ぶっ飛んだ登場人物たちの設定も事細かく練り込まれており、またそれらの設定を書き手が丹念に拾い上げながら、それらの設定に神話としての意味を付与していく様などは、さながら考察厨が興奮気味に「伏線見つけた!」とはしゃいでいるような趣があり、とても楽しかったです。楽しかったんですけど、そもそも読者は語り手の話す内容でしかその物語を知り得ないので、なんというか、彼の都合の良い設定だけを説明され、それに伴う考察はこうなんだよ!と語られているような感じもあって、しかしその感じも悪くないというか。きちんと考察のカタルシス、つまり伏線を張って、それを回収するって読み心地があって楽しかったです。物語の作り方って感じでしたね。どうでもいいですけど〈村=国家=小宇宙〉にフィッシュマンズ感がありますね。例によってここからは【ネタバレ注意!】となります。読んでいきましょう。
物語は〈壊す人〉に導かれた創建者たちが、川を遡上した先にあった〈大岩塊、あるいは黒く硬い土の塊り〉を破壊して切り拓いた集落〈村=国家=小宇宙〉の神話である。こんなふうに書くと、山奥の集落で独自の価値観を醸成させるカルト宗教のようなものをイメージするかたもいらっしゃるかとは思いますがね。果たしてその通りで、彼らは藩権力から追い出された人物で、二人で一つの戸籍を有するという戸籍上のトリックを使用して国家を騙し、巫女の扇情的な外交でアメリカ大統領に接近して自治権を主張し、挙句の果てには大日本帝国と五十日間にわたる戦争を引き起こすまでに至ったカルト集団なのであって、全体秩序のためには弾圧せねばならぬコミュニティなのである。しかしながら、はっきりいってこのような摩擦は世界中で現在進行形で起こっているわけで、一方の論理で他方を蹂躙することが許されているかっていうと、それは許されていないのであって、こちらから見れば秩序を紊乱する野蛮な集団に見えるコミュニティが、あちらからの視点に立つと理解可能な論理に基づいた世界が形成されていることに気付く。この物語は、徹底的にあちら側の視点で描かれており、その世界の創建から始まり、こちらの価値観を拒否するような、理解を拒むような奇怪な人々のエピソードを交えつつ、「もう一つの世界」をこちらに提示してくる。こちら側の価値観で生きていると笑っちゃうようなトンチキや、道徳にもとるような不埒な慣習がどんどん描かれていくわけなんですが、それに伴ってそれらの意図が寓意をもって解説される。これらが神話としての役割を果たしていくのはそういうわけで、これをもって彼らを単なるカルト集団だと言ってよいのかという問いかけが生まれる。対立の多くは双方の不理解に基づく。ぱっと見で全くけしからん連中であったとして、その内実を詳しく知ることでけしからん行為の意味が反転するなんていうことはよくあるのであって、正義と悪はくるくると回転し続けている。今作は〈村=国家=小宇宙〉の神話を通して「あちら側の論理」を、ひいては他文化における「物語の作り方」を提示しているように思う。物語を作るということは、言い換えるならば「自分の信じたことに理屈をつけるということ」でもある。一つの現象を見て「けしからん」とする視点と「尊い」とする視点が衝突した際、自身の視点を正当化するために必要なのが「物語」の力である。そしてその物語を語る、語り手に必要なのはナラティブな視点である。作中では、語り手たる息子を神話の伝道者としてスパルタ教育を施した〈父=神父〉に対して、このように表している場面が登場する。〈父=神父も他人には多義的なものに見てとられるほかないふるまいを、しかし疑いようもなくその内面の一貫性に発して行うことがあった〉。自分の信仰に従って物語を組み、世代を超えてそれを伝えようとしたこと。他文化に属する人の価値観では筋の通らないような物語も、彼らの物語の中では理由がつけられており、むしろその構造ゆえに物語の力は強化される。物語の最終盤で再登場する『森の怪物フシギ』が欲するものが「言語」であるというのは示唆的である。言語による物語の創出は、価値観の衝突に対して有効に働くのだろうか。そんなことを思ったんですがね。しかし、今作の中では、外から来た理知的な双子の天文学者「アポ爺」「ペリ爺」が、結局〈村=国家=小宇宙〉の物語に取り込まれつつも、最終的には国家権力に粛清されたりするので、なんというか、こいつらやっぱカルトじゃん、みたいに思わずにはいられないんですよね。一貫性というか。共通の価値観というのはいわば社会のルールであって、そちらにはそちらのルールがあるのはわかるよ、と歩み寄ったところで突如ルール自体を変更するような物語を出されちゃうとお手上げじゃないですか。前提を覆さんでくれよな、みたいに感じましたアポペリを信じてた語り手はどうしたらええんや、みたいな気持ちになりましたね。まぁ世界というのは複雑ですから。たくさんある世界がそれぞれに関わっている社会で、一つの世界の神話を提示した物語でしたね。色々ユニークな登場人物も面白かったんですが、個人的に好きだったのは、端役なんですが、五十日戦争のエピソードで語られた体育教師です。自身の埒外の事態に対して頭を働かせることなく「むちゃくちゃなことをするなあ、いったいどんなつもりで?」と子供じみた抗議を繰り返し、いよいよ事態が煮詰まってくると「むちゃくちゃなことをするなあ!」と絶叫して卒倒する様などは、マジで愛らしいですよね。私も不可解な事態に直面した時にこれから多用していきたい。「むちゃくちゃなことをするなあ、いったいどんなつもりで?」と。
というわけで先月の課題図書は大江健三郎『同時代ゲーム』でした。今月はヴァージニア・ウルフ『灯台へ』です。秋の夜長です。読んでいきましょう。