03/06/2026
北区の地霊(レガシー) 第2.5回 地形が生み出す地霊
地霊を語るとき、最初に向き合わなければならないのは地形です。
人間の歴史はせいぜい数百年。しかし地形は数万年の時間をかけて作られています。人間の営みはその地形の論理に従って展開してきたと考えられます。地霊の最も深い層は、地形そのものの中にあるのかもしれません。
今から約6000年前、縄文時代の海水準最高期、北区のあたりはどんな景色だったか。
赤羽から上野の間には、海が侵入して海食崖が形成されていたとされています[1]。王子・東十条のあたりまで海だったのです。現在の崖線、つまり武蔵野台地の縁がそのまま海岸線だったと考えられています。
その崖の下に、縄文人は貝塚を作りました。
北区上中里に残る中里貝塚は、縄文時代中期から後期初頭(4600年前〜3900年前)に形成された国指定史跡です。全長1km、幅70〜100m、厚さ4.5mにも及ぶ規模で、単なるゴミ捨て場ではなく、縄文人が協業して貝を加工した水産加工場だったと推測されています。生産された干し貝は内陸の集落へと供給されたと言われています[1]。
つまり6000年前、北区はすでに「生産し、供給する場所」としての機能を持っていた可能性があります。
その後海が退き、低地が生まれ、川が流れ、人が住み始めました。しかし地形の骨格は変わらない。
北区には大きく二つの地形があります。
ひとつは荒川・石神井川が作り出した低地。赤羽岩淵はその典型です。水が流れ、人と物が流れ、定住者よりも流動人口が多い場所。
もうひとつは武蔵野台地の東端。王子・西ヶ原・滝野川がその上に乗っています。水はないが安定した土地。静かで、江戸の喧騒から切り離された場所。
この二つの地形の境界を「崖線(はけ)」と呼びます。かつての海岸線の名残とも言われています。低地と台地の間に走るこの崖線が、北区の地霊を二分する見えない境界線になっているのではないでしょうか。
低地の地霊は「流れる」。台地の地霊は「静止する」。
この地形の二層構造が、そのまま街の性格の二層構造になっている可能性があります。低地には宿場・渡し場・流れ者の文化が生まれ、台地には隠居所・静かな消費の文化が生まれたと考えられます。
江戸幕府の都市設計も、明治の産業配置も、現代の街の気質も、すべてこの地形の論理に従っているのかもしれません。人間は地形を選んで街を作っているようで、実は地形に従って街を作らされているのかもしれません。そしてその地形の記憶は、6000年前の海岸線にまで遡るのです。
参考文献
[1] 東京都北区教育委員会「史跡中里貝塚総括報告書」東京都北区教育委員会、2018年
中里貝塚
https://kanko.city.kita.lg.jp/spot/365-2/
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